平和へのリレー ある日本兵士の写真から
去る7月7日(土)、南太平洋戦没者慰霊協会主催の日米合同慰霊祭が多くの参列者を集めてジーゴの平和記念公園で厳かに執り行われました。
その際、祭壇にはこれまであまり見慣れない光景がありました。数々の花輪が飾られている中に、一際目立つ大きく引き延ばされラミネートされた軍服姿の日本兵の写真が含まれていたのです。更に、その傍には、退役米海兵隊員ローレンス・F・カービー氏から贈られた花輪が添えられていました。
この写真と花輪をお供えしたのはピースリング・グアム-ジャパンの理事をしている内藤寿美子さんで、その経緯についてお話を聞くことができました。
写真の主は身元不明なのですが、カービー氏はグアムでの戦闘中、この名前も知らない一人の若者の命を奪った本人なのです。
ローレンス(ラリー)F. カービー氏の略歴を簡単に紹介します。カービー氏は現在94歳と健在で奥様と二人でボストンに住んでいます。彼は17歳でマサチュウ-セッツ州の高校を卒業するとすぐに海兵隊に入隊し戦闘訓練を受けました。丁度、日本の真珠湾攻撃を発端に太平洋戦争が始まった時で、ブートキャンプ(新兵訓練所)をはじめ、狙撃、通信の訓練を受け、更に斥候となるため上級歩兵学校でジャングルでのカモフラージュの仕方、人に気づかれない行動の仕方、素手で敵をことなどを学んでいます。小柄、痩せ型で都会の貧困育ちだった彼は、斥候にはうってつけの人材でした。
カービー氏は18歳で戦争に参加し、最初の戦地は、ブーゲンヴィル島でした。その後、米軍の”飛び石作戦”に加わり、グアム、硫黄島で戦争を体験した後終戦を迎えています。戦争から帰還した後は、大学で歴史と法律の学位を取得し、後にコンピューター会社の副社長として成功をおさめました。帰還して45年経った頃、初めて奥様に戦争の事を話し始め、娘さんの勧めもあって、戦争体験をつづった”太平洋からの物語”という本を出版しました。
以下は80歳の誕生日を機に、インタヴューに応じて話した戦争体験の中で彼が一生忘れられないグアムでの体験を語っています。
カービー氏の所属する海兵隊第3師団は、グアム解放作戦に配属された。日本軍に対する海・空からの圧倒的な攻撃のあと、1944年7月21日、海兵隊はアサンとアガットの2ヵ所からグアム上陸を果たし、すぐさま、抵抗する日本軍を包囲しながら、グアム島の中央部から北に向かい追撃を開始した。
7月27日の夜明け前、中隊長に呼ばれたカービー氏は、日本軍の位置、兵隊の数、移動している方角等の情報を偵察してくるよう命じられた。彼は日本軍がいる方に向かいジャングルの中を注意深く進んだ。暫くして蜘蛛の糸の様に張られた電線に気づいた彼は慎重にそれを切断し始めた。付近を日本軍に盗聴されていたのだ。ふと顔を上げると、その視線の先に日本兵がいた。彼も同じように、米軍の動きを偵察に来ていたのだ。
ほんの数秒間の出来事だったろうが、5分間くらいはお互いににらみ合っていたように感じたと回顧している。お互いが恐怖におののいてこわばっているのが分かるものの、どちらかが死ぬことも同じ様に分かっていた。カービー氏が前にすっ飛んで藪の中にうつ伏せになるのを見ると同時に日本兵が銃を発射した。更に、日本兵が彼の後方に手りゅう弾を投げてきたので、がむしゃらに日本兵に向かい走りながら銃を撃ち続けた。手りゅう弾が爆発した後気が付くと、日本兵は泥沼に顔を下にして倒れていた。彼は死んだ。一瞬”すまない”と自然に言葉が出た。カービ-氏はゆっくりと日本兵に近づくとそのヘルメットを外そうとした。その時カービー氏は気を失ってしまった。
我に返ったのは仲間が抱きかかえて立たせてくれた時だった。カービー氏は再び日本兵に近づき仰向けにすると、腕を胸の上で組んだ。そして、戦利品としてではなく日本兵の思い出として写真を取り出した。カービー氏は未だにその写真を持っており、いつか自分の意志で埋葬したいと考えている。彼は、事件のあったその日、”もし皆が本当に自分に正直なら、戦争している人は決して敵を憎むことはない。なぜなら、本当の敵は戦争そのものだから”という事を学んだと回顧している。
日本では8月に入ると、太平洋戦争の惨さ・悲惨さ、亡くなった兵士、そして帰りを待つ家族等の特集、ドキュメンタリーが連日放送されています。
特に戦場から家族宛てに送られた軍事郵便の多くは戦況の悪化に伴い全く送られなかったり、米軍等に押収されたり、兵隊の戦利品と持ち去られたりと、未だに未配達のままで世界に彷徨うっています。その中の一部が、返還されたり、オークションで売られたり、また、余生短い米兵達が持ち主を探して欲しいと支援団体に送ったりと、70余年経った現在も遺族に届いています。
手紙や遺品を突然受け取った遺族の驚きと、悲しみはとても推し量ることはできません。それと同時に、遺骨ではないにせよ長い年月を経て夫、父親が帰ってきたという思いは何事にも代えがたい喜びだと思います。悲しくても、長きにわたり心の奥に残り続ける戦争に終止符を打つ切っ掛けとなるでしょう。
今回、合同慰霊祭に列席することにより初めて、アメリカ軍兵士の語る戦争体験を読む機会を得ました。カービー氏も、今持っている写真を家族に届けられればと考え、ドキュメンタリー映画”灯籠流し”のバリー・フレシェット監督、日本で身元捜しのボランティアーをされている新井勲さんの手を経て、内藤さんにグアムに届ける労を受け持って頂いたものです。
カービー氏はもし家族を見つけることができないとしても、兵士の写真を慰霊できれば本望だと思っています。今回、様々な平和を願う人達の心のこもったリレーでカービー氏の望みがかなったことは幸いでした。このニュースは勿論
カービー氏にも届けられています。
最後に、日本兵の命を奪った日はカービー氏の人生に衝撃的なインパクトを与えた日で、ずっと心の中に閉まっておいた気持ちを哀歌として自著の本の最後に載せています。
若々しい敵に出くわした
おびえる私が彼の目に映る
お互いに躊躇した(時間)
しかし、戦う宿命、どちらかが死ぬ運命
少年でもなく、いまだ大人になりきっていない
戦争に嫌気がさした若い兵士が二人
信奉する国旗と顔つきの違いだけ
その夜、一人が永遠の眠りにつく
一息ごとに忍び寄る さらなる恐怖
殺さないと、今、やらねば
なぜ見知らぬ人の命を求めるのか
空しい絶望のなか問いかける、なぜ?
相手は友にこそなれ、敵ではない
その願いは愚かな思い付きではない、本心だ
勇敢でうら若い兵士には分かる由もない
悲しいけど教え込まれた術で彼を殺した
彼を殺して以来、長い年月が過ぎた
心は未だに痛み、誇る気にもならない
今ここに生きる自分は、地獄の中にいる
あの残酷な日に、私も死んだ
STORIES FROM THE PACIFIC: THE ISLAND WAR 1942-1945
May 11, 2004 by Lawrence Kirby