名誉会員紹介

日本人会名誉会員のご紹介

日本人会名誉会員 井上 明 様

 グアム来島は1963年。東京に本社を持つ南洋貿易株式会社の係長時代にグアムに来てから5年間、食品、建材、電化製品、ならびに雑貨等を売り歩き、取引関係の人々との信頼関係を築き、1968年9月南貿グアム株式会社の営業を開始、そしてグアム日本人会設立委員となって1973年の日本人会発足に深く関与され、会長職も2回、6年に亘り勤められました。

 又、昨年2010年11月9日奇しくも井上さんの誕生日に秋の叙勲、勲章(旭日単光章)を叙勲いたしました。現在は東京、グアムでの生活を半々で全ての仕事からはなれご自分の不動産管理をして、好きなゴルフをしている毎日だそうです。

日本人会名誉会員 馬場 明 様

 グアム初来島は1964年。正式にグアムに現地法人馬場コーポレーションを設立したのが1968年。其の時は、音響機器、のりたけ陶器、セイコー時計等の小売店を始める。1970年には日本航空の定期便就航に合わせて、ニッポンレンタカーをオープンさせる。1972年にはジョエル免税店(後に火事にて消失)。なかなか洒落たお店でした。そして1973年日本人会第一期生日本人会文化部理事を務める

 当時、グアムの日本人旅行者が増加中で、日本企業の進出も盛んになる中、駐在員家族の声として、全日制の日 何年かの後、バーガーキング、アトランティスサブマリン、ココパームビーチガーデン等、日本人社会はもとより、ローカルコミニティー、日本人観光客の為に弟一線にて頑張って頂いております。そして、2010年5月8日長年の功績を称えGuam Chamber of Commerceの86回年次総会にてGuam Business Hall of Fame(殿堂入り)を受賞なさいました。

日本人会名誉会員 高木 秀暢 様

 1967年、羽田―グアム間のパンナム一番機で日本からの農学士7名をつれて、ハッカ栽培の可能性の調査の為来島、そして、1969年グリーンファーム株式会社を設立、取締役総支配人に就任。その後、1973年安田火災保険株式会社の総合保険代理店(UIU)を設立。1991年UIUを退任し、Takagi &Associates 社を設立代表取締役社長に就任し、現在に至る。

その間、日本人会会長、日本人学校学校理事会理事長、日本人学校創立20周年記念行事運営会委員長、Employers Counsel.グアム赤十字社、グアム私立病院等の理事を兼任、NPO法人ピースリンググアム会長を務め、グアム日本国総領事館賞受賞、また平成27年には長年の功績を称え旭日双光章を受賞。

日本人会名誉会員 中嶋 則夫 様

 茨城県龍ヶ崎市出身、大学では会計学を専攻し、1975年4月不動産会社に勤務され、1976年7月に当時のホテル・トロピカーナに経理担当として赴任されました。1978年2月に転勤辞令を受け一度日本に帰国されますが、1981年11月馬場コーポレーションに入社され、傘下各社の運営にあたられました。1984年4月同社バス事業部門であるマイクロネシアン・ホスピタリティ・インク(MHI)総支配人に就任されています。MHI社は、2008年株式が馬場コーポレーションからサンコーエンタープライズ・インク(SEI)に譲渡され、現在はSEIグループの一員となっています。

 中嶋氏と日本人会との関連は、次の通りです。
 日本人会理事4期(x3年、会計部長、教育部長、文化部長、副会長を歴任)、他に学校理事、補習授業校PTAや日本人会20周年記念行事委員等

 その他の役職
 グアム政府観光局理事、日本グアム旅行業協会役員、Employers Council理事などを歴任、趣味の分野では1991年ゴルフのお仲間とグアム九十九会を設立されました。

日本人会名誉会員 片桐 悠爾 様

 *片桐悠爾氏からはプロフィールに替えて、『日本人学校校歌制作秘話』メッセージをいただきました

 私が、ジャルパック社の責任者として初めてグアムに着任したのは、1987年1月11日でした。当時日本人会会長だった日本航空の故山口俊一支店長とともに青年部長として運動会と秋祭りを担当したことを懐かしく思い出します。

 当時、グアムの日本人旅行者が増加中で、日本企業の進出も盛んになる中、駐在員家族の声として、全日制の日本人学校の設立を望む声が高まりつつありました。1989年に全日制は開校されてはいましたが、ホテルを校舎代わりに転々と使用しておりました。

 山口会長と当時教育部長だった淺沼組の波多野進氏の夥しいご努力により、校舎の建設に向けた文部省(当時)との交渉が始まり、1989年に校舎の建設が始まりました。地元日系企業による資金面の援助があったことは言うまでもありません。

 1989年校舎建設の槌音が聞こえる中、山口会長は、グアムをこよなく愛し、年に数回もグアムに来島されていたプロの作曲家浜口庫之助さんに、校舎竣工に合わせて日本人学校校歌を募集することから、その審査と校歌の作曲を依頼するところとなりました。

 浜口庫之助さんは、校歌の作曲は名誉なことであるとひとつ返事で引き受けてくれたそうです。もちろん無料で。応募された作品は全部で12作品。

 浜口先生は、それらすべての応募作品に曲をつけ、自らのピアノ伴奏に合わせて当時中学生であった一粒種の娘“あんずさん”が歌い、録音されたカセットテープを楽譜とともに応募者全員にプレゼントしてくれました。私も校歌募集に応募した一人でした。

 応募者12人の中には、スミス先生やLAMLAMの社長だった手塚さんの奥様ほか多数の生徒さんがいらっしゃったことを覚えています。

 とにかくスケールの大きな歌を作りたいと思いました。新しい世紀を担うという意味から、文化と平和と歴史を1番から3番に当てはめ、グアムを舞台に育った子供たちが日本と世界を舞台に大活躍する未来を思い描き、「日本のために、世界のために」と書きました。

 浜口先生、山口会長、波多野部長らによる応募作品の審査を経て、私の作品が校歌に決定された訳です。応募者の名前を伏せての審査だったことは言うまでもありません。

 1990年、濱口先生には、奥様とご一緒に竣工なった校舎での入学式に参列していただきました。私にとっても晴れがましいひとときでした。いくつかの日本の新聞にも報道されました。

 大きな学校行事のたびに、生徒さんたちに大きな声で校歌を歌っていただくとき、感無量の思いに浸ることが出来ます。私のとって最高の名誉であります。

 また、校歌の応募がきっかけとなり、プロの作詞家への道が開け、「グアム島音頭」や「南の島はパラダイス」などを世に出すことも出来ました。

 日本人学校ある限り、この校歌が歌われ続け、生徒さんたちが大きく成長してゆかれることを心より望んでおります。

グアム日本人学校の校歌と歌詞はこちら

日本人会名誉会員 飯塚 保 様

*飯塚 保氏の略歴

 山形県新庄市出身。
 1971年12月ヒルトンインターナショナルグアム開業(1972年2月オープン)の為、東京ヒルトンホテルより転勤。
レストラン・バー・宴会・料飲支配人職を経て1985年退職、翌1986年グアム銀行タモン支店向かいに1戸(2階)建て日本料理店「一心」をオープン、1993年6月隣接で新築のロイヤルパームリゾートホテル&コンドに移転、同年8月M8大地震によりホテルが倒壊、立ち退き、翌1974年2月ハイアットホテル向かいにラーメン店「太助」オープン、1997年ウエスティンホテルに「一心」を再オープン、現在に至る。
現在、日本人会秋祭りアドバイザーのほかメイク・ア・ウイッシュ・グアム名誉理事、ピース リング オブ グアム副会長を兼任。

日本人会との関連を振り返って ~ 飯塚 保

 1977年「グアムに住む日本人の子供たちに日本の祭りを経験させてあげよう」と祭りが旧オークラホテル駐車場で発足しましたが、当時のヒルトンホテルが会員ではなかったため盆踊りの太鼓を叩く手伝いに顔を出す程度でした。あの当時は諸外国(韓、台、比)アソシエーションの大きなイベント活動が目立ち、その収益金で公園のパビリオン建立などと地元に大いに還元していました。出来立ての日本人会はこぢんまりと内輪の活動だけでしたので悔しい想いをしたものでした。

1983年、秋祭り会場がイパオ公園に移り、ローカル入場者が増え地元の人気のイベントとして楽しみにされるようになってきた1986年に独立し「一心」をオープン、祭りへの本格参加が始まりました。祭り当日は昼夜閉店し家内を先頭に従業員総出で握り寿司を販売し、自分は遠山氏と(後に小瀧氏も)盆踊りの太鼓を叩くようになりました。

 1994年「一心」閉業後ブースでの食品販売は出来なくなりましたが日本人会理事として3年間勤めました、
 1年目は運動部副部長、あとの2年は青年部部長として祭りの実行委員長、そして理事を離れた次の年から現在まで実行委員会相談役として理事、特に青年部の補佐役をやらせていただいております。
 そして1996年に好祭会が設立、副会長を3年、故谷口初代会長の後を継ぎ会長として現在に至ります。1993年、臼井現副会長の奥様の故郷北海道津別町の神輿会が地震のお見舞いで参加され、持参した神輿を寄贈していただきました、その神輿の保存と管理、そして日本から毎年自費で参加される演舞の皆さまをしっかりと歓迎する目的で好祭会が出来ました。初心の「子供たちが主人公」という想いもあり、日本人学校の子供たちが担ぐ神輿をみんなで盛り上げることを大事に思っています。日本からの神輿の担ぎ手も少しずつ増え、今では50人を超える仲間が出来ました。

 祭りの準備に何か月も掛かり3年間担当される理事の皆さんは大変にご苦労されておりますが、理事の他にもグアム生活が長く理事経験者を含む祭実行委員がおり、中には20年余りアドバイザーとして尽力されている方も何人かおります、本当にお疲れ様です。祭りの成功は担当して努力してくださる日本人会理事、実行委員の皆様、好祭会の仲間、日本から自費参加の皆様、そして主催者としてブースで販売してくださる日本人会会員の皆様のお陰です。
 地元の皆さんはこの祭りを通して日本の文化やしきたりなどを知り、もっと日本に興味を持ち、又日本人会をある意味尊敬の目で見ています、そして私たちも日本人として誇りに感じるイベントです。できる限る続けていきたいと思っています。

日本人会名誉会員 ウッドレー 節子 様

 新しく名誉会員になられるのは法人会員「シートンM.ウッドレー3世法律事務所」に所属されるウッドレー節子さんです。節子さんは1981年(昭和56年)にご主人のお仕事の関係でグアムに移られました(前回の1964年東京オリンピックの際にはJapan Timesの横浜支局に在勤、クルーズ船でやって来たオーストラリア人のアクセントの強い英語に苦労されたとか)。

 節子さんは1983年に初めて理事に就任(当時NTTは電電公社、JRは国鉄という時代)、以後1985年から2年間監事を、1987年から89年と93年から95年の2期に婦人部理事、2002年婦人部理事の際には副会長も兼任され、2003年の文化部長を最後に理事からは退かれましたが、2002年から19年まで日本人会ニュース「ラッテ」の編集委員、並行して長年Women’s Clubに所属、多岐に亘る方面でご活躍されました。

 また、1982年には読売巨人軍のグアムキャンプが始まりましたが、選手より「グアムのお母さん」と呼ばれるほど甲斐甲斐しくボランティアとしてお世話されたお話も残されています。