グアムを離れて想うこと(杉本 幸一)
Hafa Adai ! 日本人会の皆様、大変ご無沙汰しております。WATABEの杉本でございます。
今回、ラッテの誌面に登場することが出来まして、とても光栄で嬉しく思います。久々に日本人会のホームページも拝見して、大変懐かしさを感じました。 さて、思い起こせば私が、初めてグアム島に降り立ったのは、1995年3月のことでした。その頃のグアム空港は、今のような立派なターミナルではなく、南の島の雰囲気を感じさせる素朴でのんびりした印象でした。(現サイパン空港そのものです)
その後、半年の準備期間を経て、9月にVisaが取得出来て、晴れてグアムに着任しました。私にとっては、新会社(WATABE GUAM,INC)の責任者と言う重責にプラスして初の海外生活、しかも家族同伴での転居や転校など目まぐるしく進み、見るもの聞くもの全て(特に言語)がこれまでの日本とは異なる出来事(ハプニング)の連続でした。。。
そこからあっと言う間に時間が経過し、私とグアムとの関わりは、結局、2度(1995年~99年/2005年~10年)の駐在を経て、もう20年になりました。日本に帰国して5年になりますが、現在も継続してグアムの皆様と繋がりを持てている事に感謝しています。
●ここでグアム駐在時代のトピックスを少しお話ししたいと思います。
①台風(パカ)の襲来
1997年12月16日、私の人生の中でこれほど自然の恐ろしさに直面し、死を意識した瞬間は、ありませんでした!
しかしこの災害を通じて周りの人々の温かさや支えが身を持って体験が出来たことは、本当に貴重な経験となりました。
インフラ(水・電気他)の回復まで1ケ月以上を要しましたが、その中でもレオパレスホテルの大浴場を無料開放していただいた事は、本当にありがたかったです。
②朝・昼・晩の停電地獄
初めの4年間の駐在では、停電と共存した仕事や生活でした。店舗のビルにジェネレーターは備え付けられていましたが、手動操作の為、停電すると、直ぐにカバーが切り替わらないので、業務が滞ったり、大事なデータが消えてしまったり…とイライラの連続でした。家庭でも、帰宅したら停電状態のため、エアコンのない暑さで、キッチンからたこ足配線のランプで食事をすることも度々ありました。妻は炊飯と洗濯中の突然停電には発狂していました(笑)
でも、そういう生活も徐々に慣れてくると、受け入れて(時には諦めて)過ごしている家族を逞しく思ったものでした。
③暑い島での冬行事
年中常夏のグアムにも四季を感じるチャンスはありました。
乾季雨季はもちろん、レオパレスのススキやトンボに秋を感じたりしますよね。そのグアムでの、クリスマスやお正月の過ごし方は、今でも脳裏に焼き付いています。
停電が酷かった時代でも、クリスマスが近づくとショッピングモールやホテルロード、ローカルの家々が夜になると工夫を凝らしたイルミネーションやデコレーションが競うように周りを明るく照らしてくれて、とても華やかで賑やかな季節になりました。
ハイアットの背の高いクリスマスツリーやヒルトンのクリスマストレインは、子供たちも毎年楽しみにしていました。
元旦は、日本人会の年賀式に参加した後、ニッコーホテルやリーフホテルで餅つきをやったりして暑いお正月を堪能しました。
④日本人会理事就任
2度目の駐在で私は日本人会理事を3年間経験させていただきました。文化部部長として、最終年度は副会長の大役を与えていただき感謝しています。広い視野でグアムの事を考えたり、行事を協力して運営していく難しさも学べました。
なかなか知り合えないメンバーとの交流は、とても刺激的で今でも楽しかった想い出になっています。
私(家族)の今があるのは、グアムの皆様のアドバイスや協力とバックアップ・サポートなど、当時を支えていただいたお蔭だと、この誌面をお借りして御礼を申し上げます。
今後もますますグアムの発展と成長をお祈りしています。
皆様の健康と活躍を日本から応援します! またグアムでお会いしましょう!! Good Luck !
杉本 幸一