2015年 戦後70周年特集記事 

2015年 戦後70周年特集【第一弾】 

ご存知のとおり、グアムは太平洋戦争の激戦地の一つで、戦争の面影を今でも色濃く残しています。「ラッテ」編集部では、戦後70周年を迎える今年、何か後世に残せるものはないかと、戦争時の話をしてもらえる方にインタビューを行い、記事にすることを計画しました。 

~みらいの日本を背負う子供たちへ~

 日本人学校のスミス八重子先生に、戦争の記憶を紐解(ひもと)いていただきました。これを読むと、少し日本を誇りに思うことができるかもしれません。ぜひ子供たちに読んであげてください。

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今からちょうど70年前の1945年、沖縄戦での敗戦、広島・長崎の原子爆弾投下に加え、ソビエトが日ソ中立条約を破棄して満州に攻め入り、ソビエトの侵攻はもはやあるまいと主力を南方に送っていた関東軍はなすすべもなく、日本の敗戦が決定づけられました。8月14日(天皇陛下の玉音放送は8月15日)、日本は降伏して、太平洋戦争に終止符を打ったのは皆様ご存じのとおりです。 
満州国のソビエト国境付近では、戦闘は終戦後も続き、ソビエト軍の一部は暴徒化し、国境付近の日本人の開拓団村で略奪、暴行もすることもあったそうです。そのため日本人は、降伏しても殺されると信じ、戦死か自決を選んだため、多くの人がなくなり、中国残留孤児など悲しい歴史が生まれました。その満州に当時いらっしゃったスミス先生にお話しを伺います。

Q: 中村:ご幼少の時に、満州にいらっしゃったとか
A:スミス先生:はい。私は戦中、満州の新京で生まれました。満州は日本の3倍の面積がありました。鉱物資源に恵まれ、毎日多くの貨車が鉱物資源を積んで、日本を目指し、家の近くを通っていました。それに手を振って見送っていました。新京はとても都会で、ビルも立ち並んでいました。父は満鉄(筆者注:南満州鉄道、満州国に日本が1906年、明治39年に作った半官半民の鉄道会社、戦後中国・ソビエト両政府の合弁会社に移管された)の建築技師で、新京から8方向に鉄道を施設する仕事に携わり、満州がすさまじい速さで近代化を果たした一翼を担っていたことを誇らしげに語っていました。母は日本が作った研究所に勤めていて、農業関係か何かわかりませんが細菌を研究していたようです。きょうだいは、私を含めて5人姉妹でした。市内には、2,000人規模の女学校が3つもあって、姉たちはその一つに通っていました。満州の人は、日本に友好的で、父をジャングイ(大将)といって慕っていたことを覚えています。
Q: 戦中は大変だったのではないですか
A:あまりつらかったことは覚えていません。当時、満鉄で働いている人は、いろんなものに使えるチケットがもらえていて、それには”黒”と”赤”がありました。”黒”は、ある部分は無料、ある部分は払わないといけません。しかし”赤”は、生活すべてこのチケットで賄えました。何にでも交換でき、何でも自由にできました。お芝居や芸能も日本からきていて、私は姉と毎週のように、この”赤”チケットを持って見に行っていたことを覚えています。そして、戦後1年くらいは、戦中と比較して何の変化もなく、同じような生活をしていたと思います。
Q: でも、いいことばかりではなかったのでは
A:そうですね。停戦の協定があるにはあったのですが、国境の開拓団の村には、ロシアが入ってきて強奪、暴行を繰り返しているらしく、いつそれが新京に迫るかと考えると恐ろしかったです。昭和21年(1946年)の8月ある日の夕方、父が家に帰ってきて、ロシアが来る、ここも危ない、明日大連行きの最後の汽車が出る、それで日本へ帰るから支度をしなさいと言いました。
銀行にも行けず、貯金を下ろすのはあきらめ、家にあったお金をかき集め、母が着物の衿に縫い込んだりして、途中取られたりしないようにしたのを覚えています
Q: まさに山崎豊子さんの“大地の子”のシーンが脳裏によぎります
A:でも私たちはまだましだったと思います。父が満鉄だったということもあり、汽車に乗れ、大連からはすぐに船に乗ることができました。小さい女の子5人を無事に日本に連れて帰ってくれた父と母には感謝しています。一番下の妹は3ヶ月でした。
大連行きの汽車がなくなった後は、38度線方面(筆者注:朝鮮半島方面)の汽車しかなくなり、その汽車で現在の韓国へ、さらにその汽車がなくなると、朝鮮半島を歩いて縦断して、韓国へ行き、日本を目指すようになったと聞いています。
Q: 日本には無事着いたのでしょうか
A:船で着いたのは佐世保(筆者注:長崎県)でした。通常1~2日で着くところを、機雷をよけながら10日もかけてたどり着きました。途中、沈んだ船からのものでしょうか、いろんなものが浮いていたのを覚えています。佐世保からは汽車で、満州に行く前に住んでいた鳥取に戻りました。土地を持っており、人に貸して耕してもらっていましたが、戦後すぐの農地改革により土地は、貸していた人のものになっていました。何もかもなくなりましたが、襟に織り込んだお金で、なんとか生活をすることができました。
Q: 激動の幼少期を過ごされたわけですが、一番心に残っていることは何ですか
A:父が誇らしげに語っていた日本の技術力でしょうか。
ちょっと話は変りますが、10年ほど前、姉の一人が新京に行きました。驚いたことに、駅、その他主な建築物は、当時日本がつくったものそのままだったそうです。そして、その時代に、母のような研究者が、改良して、寒く悪い土地でも育ち、おいしくなった大豆は、今ではこの地域の名産品となって、輸出もされているということでした。
新京から8方向に延びる鉄道網、建築物、大豆・・・当時の日本の技術が今も中国の中に生きている・・・そう感じた時に、日本はなんてすごい国なんだと改めて思いました。
子供たちには、日本人はすごいんだという誇りはしっかり持って成長して欲しいと思っています。
(ありがとうございました)

戦争では残虐さばかりが取り上げられがちですが、今回は日本の技術力を誇りに思うという全く違う話をお聞きすることができました。エンジニアの一人である私も少しうれしくなる話でありました。スミス先生、本当に貴重なお話しありがとうございました。


インタビュアー:中村 一樹

2015年 戦後70周年特集【第二弾】 

あの日から70年 

 毎年、この頃になるとあの忌まわしい日の事が思い出される。あの戦争では日本のみならず、米国、英国、中国、東南アジア諸国の人々が苦しめられ、何の罪もない尊い命が失われた。また、ヨーロッパでも同様に多くの人々の命が失われた。 

 戦況の悪化に伴い,日本では学徒動員令が発令され大学や専門学校の学生は戦場へ、中等学校の生徒は学徒動員で軍需工場に送られた。私も中学2年生の時、広島市南観音町に在る三菱重工業広島機械製作所(三菱重工)に動員され、電気溶接工として勤労奉仕をしていた。1945年8月6日の朝、私は朝5時頃起き、川上村の自宅から八本松駅に向かった。汽車は1時間近く遅れ到着した。当時は空襲に遭うなどして汽車が遅れる事は珍しくなかった。広島駅に到着したのは7時30分頃、電車を乗り換え観音町で下車。30分ほど歩いて、やっと工場の敷地内に入ったのが8時10分頃。第一工場に向かって歩き始めると、陸軍将校に「おい、貴様、今何時だとおもっておる!」と怒鳴られた。私は直立不動で軍隊式の挙手の敬礼をした。その将校は「軍人勅諭を奉唱してみろ」と言い私が奉唱を始めると「貴様は元気がない、たるんでおる!」と言ったとたん右手を振り上げて私を殴ろうとした。私が観念したその瞬間、猛烈な光線があたり一面を照らし、まぶしくて目も開けていられなかった。それと同時に焼けるような猛烈な熱さを背中や後頭部に感じた。その直後に強烈な爆発音がして、私は爆風で10メートルぐらい先に飛ばされ、道路脇の砂地の上に叩き付けられた。守衛室はあの爆風で原型を留めないほど破壊されていた。第一工場は鉄骨の一部を残して、スレートで作られた屋根も壁も吹き飛ばされ工場の面影はなくなっていた。工場から避難をはじめる人たちは顔面、頭部、手足などに負傷して血を流している。皆黙って何も語らない。恐怖に震えているようだった。 

 広島市中心部の空を見上げると、大きなキノコの様な形の雲に覆われ、その雲が金、銀、緑、赤、紫色の金属片のような物体がキラキラと不気味に光っていた。一体何が起こったのだろうか?空襲警報のサイレンも鳴らなかったし、敵機の爆音も聞こえなかった。第二の空襲があるかも分からない、私が八本松の自宅を目指して歩き出すとすぐ唖然として立ちすくんだ。そこに私は地獄を見た。全身血だらけで、ふらつきながら歩く数えきれないほどの負傷者の群に遭遇した。歩けなくなって道路に倒れている人もいた。皆、着ているものも焼け焦がれ、体全体血だらけで、顔の形すらわからない。焼けただれた顔から眼球が飛び出し、耳も溶けて、髪も焼け、男女の区別さえできない人達もいた。私には気絶せんばかりの恐怖に苛まれ、広島駅方向へ向かうのは不可能と思われ、別の経路をとる事にした。福島川を橋げたをつたって渡りきり、広島市を見ると真っ黒い煙に包まれ盛んに燃えている。キノコ状の雲はさらに大きくなり、市全体を覆っていた。そうしているうちに空模様が急に変わり、空が暗くなり激しい雨が降り始めた。それが後に言う”黒い雨、死の雨”だったのだ。常磐橋の川洲では無数の負傷者や死体が倒れていた、周囲は熱風と死臭で息が詰まりそうだ。多くの死傷者が水を求めて集まったのだろう。私は負傷者や死者を踏まないように気をつけながら橋を渡った。途中「助けて」と焼けこげた女子高生の制服を着た女子生徒の手が私の足に触れた。私はどうしてあげることもできず、しゃがみ込んで「がんばって」と言うのが精一杯だった。70年たった今でも、あの時の女子学生の顔を思い出し胸が痛む。広島駅前に着くと、駅の建物は壁の一部残して破壊されていた。駅の西隣にあった郵便局は跡形もなくなっていた。周囲には黒焦げになった死体が散乱し死臭が漂っている。このあたりは一番被害が大きかったのだろう。 

 3日後の8月9日には、長崎に同じ爆弾が投下され多くの人々が犠牲になった。新聞では”新型爆弾”と発表され、”原子爆弾”と正式に発表されたのは10月頃だったと思う。「人の運命は紙一重」という諺があるが、全くその通りだと思う。あの日、もし三菱重工に到着するのが10分ほど遅かったら、私は天満町あたりで死亡するか負傷していただろう。もし広島駅で乗り継ぎがうまくいかなかったら、爆心地近くで死んでいただろう。もし、将校に捕まって怒鳴られていなかったら、工場で建物の下敷きになるか、建物の破片で負傷していたはずだ。 

 終戦後の数年間の日本は、まさに無法地帯だった、社会秩序は乱れ、暴力が横行し、在日第三国人などが悪事のし放題、日本の警察は何もできなかった。食べるもの、着るもの、住居も極度に不足し、国民の生活レベルは極度に低下し、おそらく世界一の貧乏国だったと思う。 

 私は戦後、旧制中学校に戻り、その頃ハミルトンコレスポンデンスクラブがきっかけで、アメリカの6歳のバージニア少女との文通を始めた。ハミルトンコレスポンデンスクラブとは二度と戦争を繰り返さないために、日米の少年少女が文通によって互いの理解を深め、国際交流をはかろうという趣旨で作られた活動だった。バージニアちゃんとの文通は、その後15年間、彼女が結婚するまで続いた。私にとってはアメリカの事情を知ることができ、英語の勉強にも役立った。旧制中学校を卒業した後、村に駐屯するオーストラリア軍の基地内でのアルバイトが見つかった。英語を話す機会に恵まれ、私は東京に出てアルバイトをしながら大学に行けるかもわからないと、かすかな希望を持ち始めた。そして遂に決意し、中央大学経済学部夜間部に入学、GHQの経済科学科での職も得た。大学3年生の時、GHQの高官の方達が奨学金の申請方法や渡航の条件などを親切に教えてくださり、カリフォルニア州パサデナシティカレッジへ留学することになった。その後、いくつかの大学に編入し、シアトルシティ大学大学院で経営学修士課程を終了しMBAを取得することができた。 

 アメリカでの暮らしが始まると、サンフランシスコからロスアンゼルスへグレイハウンドでの移動では日本軍の捕虜になったという片言の日本語を話すドライバーと出会い、ガーデニングのアルバイト先のラッシュ婦人や娘さんご夫婦には大変お世話になり、中学時代から文通していたバージニアちゃんのご家族からは夏休みに招待を受けた。戦後5年余りで、まだ太平洋戦争の記憶も新たな時代に、私が接した多くのアメリカの人々は旧敵国人の私に好意を示してくださった。何故、あれほどまでに憎しみ、争わなければならなかったのだろう。何故、あれ程多くの人が死んだり、苦しんだりしなければならなかったのだろう。太平洋戦争とはなんだったのか?戦争の醜さ、愚かさを深く考えさせられた。 

 現在の核兵器の威力は70年前の何万倍にも達するだろう。今世界には2万発もの核兵器が有ると言われている。その兵器を使用すれば全人類は滅亡するだろう。広島、長崎の悲劇を二度と繰り返してはいけない。あの70年前の8月6日の光景を思い出すと、今でも胸が締め付けられる 。そしてあの原爆の悲惨さを後世に伝えていく事が私たち生き残り被爆者に与えられた責任だと思う。私は今、衣食住が足り、健康に恵まれている事に感謝しつつできるだけ慎ましく質素な生活をするように努めている。あの当時の事を決して忘れないために。 

フランク三宅 

2015年 戦後70周年特集【第三弾】

昭和18年ごろに、私は本牧小学校通っていましたが益々戦火が悪化してきたので、全校生徒が強制的に箱根へ疎開を命じられました。戦争によって平和な暮らしを奪われ、遠足などの楽しい行事もなかったので、幼い私の頭の中では、強制疎開の箱根行きが嬉しくて、バスに乗った私は、母の作ってくれたお弁当と水筒、スーツケースを持って楽しそうに手を振って出かけて行ったそうです。着いた先は箱根大秋谷でした。その頃の箱根の旅館は全て閉ざされ、全館避難所になっていました。10畳の畳の部屋に16人ずつ、男女に別れ1年生から6年生が混じっての共同生活が始まり、描いていた楽しいはずの夢がくずれ、すぐにホームシックにかかりました。毎夜、おせんべい布団の中で寝返りをするとすぐに誰かの体にぶつかるような状態で、みんな重なり合って泣きながら寝た日々を思い出します。でも日中に少しは本を広げた授業もありました。また先生たちと共に畑を作り、野菜やお芋を作るのを習いました。とにかくみんないつも空腹で大食堂での食事が待ちきれませんでした。でも白いお米は数えるほどで、毎日さつまいもや大麦だったけれど、それでもお代わりはないから大切に噛みしめて食べました。おかずはいつもナスの薄切りがふた切れ入ったお味噌汁に昆布の佃煮が少しついてきたのを覚えています。食事の前は毎回『兵隊さんのブンチョウキュウを祈りましょう』と云って何回も手を合わせて祈りました。お祈りの途中に外からハエが入ってき、すっかり冷めたお味噌汁に入り溺れそうになっているハエを手でつまみ出しお祈りが終わり、いざ食事になった時は目をつぶってお味噌汁をのみました。毎晩あまりの空腹で夜中に上級生の何人かと一緒に部屋を抜け出し野菜類が保管してある倉庫に入り、まだ泥が少し残っている生のナスやじゃがいもをかじって空腹をまぎらわしたのを覚えています。しかし3ヶ月もたたないうちにひどい下痢に襲われ、あまりのひもじさに自分の持っているクレヨンをかじった事もありました。私の父が本牧小学校で、今で云うPTA役員をしていたので、すぐに私の病気の事を知り疎開先に迎えに来てくれました。父が迎えに来てくれたのはとても嬉しかったけれど、みんなと別れる時はやっぱり悲しくて、大食堂で、担任の先生と父と私と最後の食事をとった時、向こうの窓際でみんなが私に手を振ってくれて悲しそうな顔を見ると、めずらしく出された白いご飯ものどに通らず私の短い箱根での疎開生活が終わりました。ひとまず本牧の我が家に戻り母が最初に私にしてくれた事は、私の頭にわいたしらみとそのたまごを取ってくれる事でした。畳の上に新聞紙を広げグレイっぽい色の水銀のような練クリームを私の髪全部に塗って竹櫛で少しずつしらみ、たまごをすいて取ってくれました。でもとても痛くて、母が我慢しなさいと言っても、幼い私にはとても痛くて泣きながら新聞紙の上にぽつんと落ちてくるしらみをにらんでいた事もよく覚えています。その後、久しぶりに入った熱いお湯のお風呂の気持ち良さは忘れる事はできません。 

 当時、私の家族は両親と祖母、そして兄と3人の姉の8人です。兄は16歳を過ぎて予科練特攻隊にあこがれ入隊していました。長女の姉はすでに結婚していていました。次女の姉は中学生で、ヘアーをショートに切られ、戦争に使う爆弾を製作する工場に動員されていました。三女の姉は病気がちのひ弱な体だった為父はその頃中山と云う相模原近い田舎に土地を買い、家を建て本牧から引き上げて終戦までここで自給自足の田舎生活をしました。今思うと、そのおかげで私達は死を免れたのです。夜、そこから見た横浜の空が真っ赤に燃えているのが今も目に焼きついています。私より先に祖母と共に中山の家に非難していた三女の姉にジョインした時はやっぱり嬉しくて今までの苦しかった事を忘れ、田舎生活に慣れていきました。そんな生活の中でひとつだけとってもつらい出来事が起こりました。ある日、何人かの憲兵隊員がわが家に来て姉妹で大切に使用していたオルガンを強引にリヤカーで持って行ってしまった事です。 

 終戦を中山の家で迎えました。そして兄が戦場から幽霊のような姿で戻ってきました。兄は七つボタンに憧れ神風特攻隊に志願し、いざ自分の乗る魚雷ナンバーをもらいみんなで最後の杯を交わし、何のためらいもなく潔くお国のため、天皇陛下のために死ぬ覚悟でいたのは終戦の前日でした。兄が魚雷に乗ることは避けられたのです。戻ってきた兄は今で云ううつ病にかかり立ち直るまで1年以上かかりました。でも私達家族一同が無事で生き抜かれた事は多くの犠牲となった人達の事を考えるとラッキー中のラッキーだったと信じます。神様に感謝します。              

フローレス のり 

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