「帰還兵 星一男氏談話(4)」(文責:坂元 吉裕) 

ー日本に帰ってからー 

 1952年9月27日は星さんにとって新しい人生の始まりとなりました。タラギビーチからアメリカ空軍アンダーセン基地の施設のある所までは急な登りの坂を上っていきます。車中からは青い熱帯の空、どこまでも青い海、遠くにはロタ島の島影も見え、眼下にはこれまで過ごしてきたヤシ林が広がって見えました。 

 しかし、そんな景色にゆっくり見とれている余裕はありません。坂を上ってゆく車中では、金田一さんからこれから行われる簡単な裁判に備え、そこで尋ねられる質問と答え方を教わりました。幸いにも、その車中には日本語の分かる人間はおらず、このようなことが気兼ねなく話せました。 

 簡易裁判は名前の通り簡単なもので、星さんの個人情報、米兵を殺したか等のいくつかの質問があってすぐに終わりました。 

 それから2週間は米兵も住んでいるカマボコ兵舎で何もしないで過ごしました。星さん達より先に投降した日本兵も5人おり、これから始まる日本での生活などを話すのですが、星さんには帰りを待つ家族がいるわけでもなく逆に不安のみが募ってきました。 

 2週間の生活は看守がいるものの自由に行動することができ、食事は米兵と一緒、娯楽施設にはビリヤード台やピアノが置いてあったり、軍対抗のボクシング試合を観戦したりと、あっという間に過ぎました。 

 1951年10月8日。いよいよ日本に向けて出発の日。7年間グアムのジャグルで苦難の生活を強いられ生き延びた数少ない7人の敗残兵は、米軍が用意した4発の輸送機に乗り込みました。 

 米軍アンダーセン飛行場の滑走路は戦場付近に造られたもので、その下には数多くの日本兵の遺骨が眠っています。そのため米軍パイロットの間では、日本兵を便乗させるといつも何かが起こるとのジンクスがあったそうで、当時滑走路の傍には鳥居が建てられていました。案の定、強風のために出発が一時間が遅れたものの、一路日本を目指しグアムを飛び立ちました。 

 旅客機と違い輸送機には暖房装置がなく。高度が上がるに従い寒さが厳しくなります。夏物の服装だっただけに、8時間の機中では寒さに耐えながら、早く日本に到着してくれる事だけを考えていました。 

 羽田に着いたら報道陣が待ち受けており、一緒に乗ってきた帰還兵には再会を心待ちにしていた家族が迎えに来ていました。 

 星さんには迎えの家族もなく、飛行場で解散した後、最後まで一緒だった北村さんと二人で料亭に呼ばれグアムでの体験取材を受けたのですが、出された料理をゆっくりと味わうことはできませんでした。 

 一人になってからは、これから先の生活を考えると、じわじわと不安な気持ちが増していくのでした。持ち物といえばグアムから着てきた夏物の服と洗面用具だけ、更に追い打ちをかけるように懐もお寒い状態でした。 

 サイパンで応募して軍隊に入るつもりが、軍人ではなく軍属だった為7年間の給料は僅か3万円程で、加えて恩給も付かずこの不公平さに悔しい思いを感じたのでした。 

 田舎(福島)への汽車は夜遅く出るために、東京駅の駅長さんの計らいで、駅長室で寒さをしのぐことができました。田舎に帰るには二日がかりで、福島の郡山駅に着いたのは翌日夕方で、三代村役場から人が迎えに来ており、その晩は郡山の旅館に泊まりました。翌日、汽車・バスを乗り継いで、見覚えのある田舎に戻り、やっと父の実家に落ち着きました。 
 田舎では11月に入ると雪が降り、その寒さは南洋で17年間暮らしていた体に非常にこたえました。 

 日本の生活に早く慣れ、また社会環境を知るために中学校に一か月間通い、学生たちの考えなどを知ることができました。学校に通ってみて、自分が兵隊に応募して軍隊生活を身に着けた時と比べ、同じ年頃の生徒達が余りにも自由で開放的な振る舞いをし、考え方が違うのには戸惑いを覚えると同時に、非常に情けなく感じました。しかし、この一か月間の学校での体験は、グアムでの生活体験談を学生達に話す際にどんな言葉で話せば皆が理解してくれるかを知るのに大変役立ちました。 

 田舎に戻っても、日本の環境、生活に慣れるのにそんな困難はありませんでした。全く幼い頃からの友達がいない中で積極的に青年団に入ったりしてその中に溶け込んでいきました。田舎にいる間に妹(その当時16歳)との再会も果たせ、東北出身のグアムでの仲間達とも少しづつ連絡を取り合うようになりました。 

 但し、いつまでも田舎にいては今後の生活に不安となり、1952年7月、警察予備隊(現在の自衛隊の前身)に応募し北海道美幌に2年間配属となりました。駐屯地には700~800人の隊員がおり、そこでは極寒(氷点下20度以下)の生活も体験しました。当時の予備隊の銃器はアメリカ軍支給の銃器類を多く使用していたので、星さんがグアムの米軍ゴミ捨て場で拾った銃器で覚えた知識は教官以上のものがありました。 

 警察予備隊との2年間の契約が終わると、グアムで一緒だった金田一さん(岩手県)から一緒に魚販売の仕事をしようとの誘いを受け、岩手に移ります。星さんの転機がここに訪れます。 

 この縁がきっかけで、漁協の製氷工場長となり、後に近隣の漁協に冷凍庫の設置・販売を手掛けるようになりました。そうした中、星さんの成績・評判を聞いた日立製作所の支社長が直接勧誘に来てその会社に就職、部長まで昇進しました。この間、学校の先生と結婚を果たし、二人の息子さんに恵まれました。会社での地位は安泰となったものの、自分でやったほうが儲かると判断して独立を決意、その後は順調に成績を伸ばし現在に至っています。既に次男の息子さんに社長の座を譲ってはいますが、現在も現役でバリバリと仕事は続けています。 

 今年の8月2日に、サイパンに残った家族の中でたった一人生き残った妹さんが亡くなりました。星さんの心の中にある1ページが静かに閉じられました。 

 星さんは今も自問をしています。。。未だにグアムとサイパンのことを思う。グアムは第二の故郷。今では、サイパンかグアムで暮らしたら良かったのかと。 

 最後に、星さんに戦争についてどう思ったか尋ねてみました。意外な答えが返ってきました。 

 何故戦争を始めたのかな。大人でない私にもアメリカに勝てるとは思わなかった。戦争を知らない大人が考えた無駄な戦いだった。 

文責:坂元 吉裕 

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