「帰還兵 星一男氏談話(3)」(文責:坂元 吉裕)
1944年7月にアメリカ軍の解放作戦が開始される時点でグアム島には2万人以上の日本軍兵隊が配属されていたが、7月21日に始まった戦闘も、アメリカ軍の圧倒的な兵器・兵力により8月11日には一応幕を閉じることとなった。敗走する日本軍からは指揮系統が失われており、この頃軍の中では、軍隊解散という命令があったという。「無理に玉砕をせず、南方要塞を確保のため持久戦に持ち込め」という内容で、つまりは「諸君は友軍が来るまで自由に行動し、迎えに来た時の準備を各自でせよ」ということだったようです。
この時に残っていた日本兵は約3千人ほどで、突然軍隊の規律を解かれ、一人で生活をしろという命令を受けたのです。困惑が広がる中で、追ってくるアメリカ軍を逃れ、大小のグループに分かれて生き残るためのジャングル生活が始まったのでした。(前号で記載の通り)
ジャングルの中では、生き残った兵隊の間で食べ物の争奪戦があり、意識も行動も「帝国軍人」の姿は消えて、本能むき出しの人間性が露骨になったといいます。米を持っている兵隊は狙われ、命の危険があったそうです。
星さんたちが逃げた北の地域(今のアンダーソン基地の付近)は開墾地の跡で、牛、豚、芋、バナナなどがたくさんあったため、日本兵が至る所から集まってきて食料の争奪戦が頻繁に起こったそうです。さらに悪いことには、「少年兵は役に立たないから殺してしまえ」という兵隊がおり、そこを逃げ出し新たな安全な場所を探すこととなったのです。
さて、ジャングルでの生活ですが、援軍が来るまでの間生きて準備してなければいけないので生活をするうちに自然と五感が研ぎ澄まされていきました。月のかすかな光でも、夜動き回るのに何の支障もありませんでした。微かな音を聞き分け、微かな臭いにも敏感に反応するようになっていったそうです。
眠る時の姿勢ですが、小さな音を聞き逃さないためにも体を起こした状態で眠っていました。そうすることで、平らになって眠ったら聞こえない音や、音の来る方向が瞬時に把握できたそうです。
7年もジャングルで生活をしている間に、星さんはいろんな体験をしています。小さな台風は何回も来たそうですが、一度だけ大きな台風を経験しました。地震はしょっちゅうあったのですが、特に大きなものはなかったそうです。但し、洞窟の中で生活している時期もあったので、中にいる時に地震があると崩れたりはしないかと不安になったといいます。
1945年8月15日は日本が敗戦を認めた終戦記念日です。その直後から星条旗を立てた船がパレードしたり、多くの飛行機が今までと違った飛び方をしていたのです。船のスピーカーからは、「ジャングル生活をしている日本兵の皆様、長い間ご苦労様でした。3千年の歴史を誇るあなた方の大日本帝国も残念ながら敗戦しました。国は大変な時です。皆様、国に帰って、再建に努力してください。」との呼びかけがありました。日本人が必死に訴えているような感じだったのでいよいよ本当かなと思ったそうです。
1年前ジャングル生活を始めたころから、米軍により空からのビラや船からスピーカーを使って投降をするよう誘いがあったのですが、たどたどしい日本語による呼びかけだったので皆は半信半疑だったのです。終戦の呼びかけがあったにもかかわらず、次の日になると、米軍の掃討があったりして、「やっぱりあれは嘘だったんだ」と、一層ジャングルを出て投降をすることができなくなったといいます。また、投降するつもりで出て行っても米兵に近づけなくて逃げ出したりすると逆に撃たれて死亡したケースがいくつもあったとのことで、勿体ない死に方をした兵士も多くいたようです。
こんなエピソードがあります。終戦から数年経った頃、ゴミ捨て場に行って食べ物をあさっていた時チョコレートの包み紙や、牛乳の紙パックが日本語で書かれたものを発見。なんでこんなものがあるのだろうと思う反面、本当に戦争は終わり、日本もこんなものを造っているのかなと思ったそうです。
1951年9月25日夜。今のパゴ湾の近くで仲間(平良/沖縄、北村/新潟、金田一/岩手)とともに眠ってた星さんは人の気配に、眠っている場所からパーンと弾けた様に3-4メートルくらい飛びのきました。同時にその場にいたみんなもチリジリバラバラとなりました。鹿撃ちに来ていた原住民が寝込みを襲ったのです。但し、平良さんは銃口の前で逃げられず捕まったそうです。
こんな時には、予め話し合った通り、いくつか物を隠した場所に集まることになっており、星さんもその場所に向かいました。星さんはジャングルやゴツゴツした岩場を、足に着物の端切れ巻き付けて夜通しで走りました。途中北村さんと会い夜明け前には決められた場所の近くまできました。北村さんによると、事件の後、暫く近くの場所に隠れて事の成り行きを見ていたのですが、捕まったのは平良さんで、現地人と思った人は日本語を話していたとのことでした。
平良さんは捕まった日の朝には、米軍が用意した船から投降の呼びかけをパゴ湾付近から現在のパティ岬あたりまで行っており、パゴ湾付近に身を潜めていた日本兵が投降をしたことを後で知りました。また、一緒にいた金田一さんも同じ日に投降をしていました。
金田一さんは皆の集合場所を知っているため、その場所に先回りし、送水管のある水の出る場所に11時から12時の間に投降するようにとの置手紙を残していました。安全を期して、夕方にその集合場所に着いた星さんと北村さんは、金田一さんの置手紙を読み、日本が負けたことを知り二人で号哭しました。それと同時に、投降をする決心がついたのです。
1951年8月27日午前、星さんと北村さんは隠しておいた白い上着に、白ズボン、テニスシューズを履き、指定された場所に向かいました。星さんにとって投降の場所は米軍に追われ最初にジャングルに入ったのと同じ場所で、何かの因縁を感じたそうです。指定された場所には、歩哨がいたのですが暫く二人には気が付きませんでした。そこにはシェパードもいたのですが襲ってくる様子もなく、無事にその場所に着きました。連絡が上手くいってなかったらしくあっけない投降でした。すぐさま憲兵隊と金田一さんを乗せた車が到着し、7年に渡り長く住み慣れたジャングルや見慣れた海、白浜をバックに断崖の上にある米軍基地の事務所に向かいました。
文責:坂元 吉裕