「帰還兵 星一男氏談話(2)」(文責:坂元 吉裕) 

海岸の傍のジャングルには水の出る洞窟があり、そこには同じ様に逃れてきた28人の兵隊達が潜んでいました。そのなかに、サイパンで世話になったという兵隊さんがいて我々を呼び込んでくれました。そこには食料もあり2週間ほど一緒にいました。そのあと7人の兵隊さんに加わり別行動をとり、いよいよジャングル生活の始まりです。話を伺っていて思ったことは、星さんとそのグループはいろんな面で生き延びるのに必要な恵まれた条件がそろっていたと考えられます。まず、星さんや気象隊の仲間はサイパンで暮らしており、グアムの環境に慣れることに問題がなかった。また、グアムに配属されてから、気象の勉強をしていたため、時間や気象状況を判断することが身についていた。それに、普通の兵隊さんが18歳以上の人たちであったのに対し皆若かった。さらに、一緒に暮らした兵隊さんの中に沖縄出身の人が複数いて、漁猟の仕方、食べ物に対する貴重な知識(特に毒のある蘇鉄の実の食べ方などを知っていた)を教えてもらった、等々が考えられます。さらに、アンダーソン基地の西側滑走路の近くに隠れていて、そのそばにゴミ捨て場があり、そこで食べ物、着るもの、、靴、カレンダー、更にはカービン銃なども手に入ったそうです。とは言いつつも絶えず緊張をしながら生活したことに変わりはありません。 

 では、実際にどんな生活をしていたのでしょうか。 

 ご存知の通り、アメリカ海兵隊がグアムに上陸する直前は、2週間以上、昼夜に亘り海軍の艦砲射撃や、飛行機からの爆撃で、グアムの山や平地は丸裸の状態でした。北に逃走する日本兵にとって北側は石灰岩の台地で、土地は肥えておらず、現在ジャングルとなっているアンダーソン基地の周りは連日の艦砲射撃や、空軍の爆撃で隠れるようなところは限られていました。最初に問題となるのが食糧で、食べ物を探しに行くのは夜の間です。現在のアンダーソン基地の周辺にはチャモロの人が持っていたランチ(家畜を飼った牧場)が点在しており、そこにいた牛、豚などの家畜を食べていたそうですが、それも長く続かないうちに食べ尽くしてしまったそうです。北に逃れた人たちは小グループで身を潜めていたのですが、一頭の牛を2-3人のグループが潰してしまうと、せいぜい2-3日しか食べられず、残りは腐敗して無駄になってしまいます。またランチのあった辺りには、アメリカ兵が掃討のため頻繁に見回りに来ており、実際に銃撃戦の後3人ほどが犠牲となっています。星さんはその際、兵隊さんに銃弾を渡す役だったのですが、怖くてうまく渡せなかったそうです。もともと、島の北部には、人が殆ど住んでいなかったので、いろんな動物や植物が食糧となったそうです。イグアナ、ヤシガニ、黒いトカゲ、フルーツバットや鳥が貴重な食料となりました。夜行性のフルーツバットは、昼間は洞窟などで固まって眠ているそうです。面白い話をしてもらいました。不意を襲って捕まえようとするとき、もし子供の蝙蝠が驚いて飛び立てないと母親は子供のそばにいて子供が飛び立つまで逃げないとのことでした。グアムにはもともと蛇がいなかったので、鳥がたくさんいて、いろんな鳴き声を聞いたといいます。しかし、季節ごとになる果物などは、昼間のうちに美味しいところを最初に鳥に食べられしまいます。これが羨ましかったと話してました。9月にはパンの実が食料となりました。 

 あと貴重な食料としてヤシの実が挙げられます。ココナツジュースは健康飲料として現在でもよく飲まれていますが、ジュースは喉を潤す貴重な飲みものとして、また、果肉は食べ物として常に手に入るものでした。また、ヤシの実の外皮は燃料としても使えますので非常に重宝していました。ただし、飲んだり食べたりしたヤシの実を捨てておくと人がいることを悟られるので、殻は洞窟などに捨てました。食べ物は生で食べる事もありますが、洞窟の中で煙を出さないように気を付けながら煮炊きをして食べたとの事です。その様に貴重なヤシの実ですが、兵隊さんの中には木に登って実を採ることのできない人がいました。木に登れないということは致命的なことなのです。 

 星さんたちが最後に暮らしていた所はすぐ下が海岸で、沖縄出身の兵隊さんが活躍しました。海からは、いろんな魚、貝、タコなどが簡単にとれたそうです。タコは、前日に捕っても、次の日には同じ場所に別のタコが住んでいたとのことで面白い習性をもっています。また、長く住んでいるうちにいろいろな廃棄物を利用して生活用品を造ったそうです。近くに米軍の実弾射撃場があり、飛行機が標的の旗を機体の後ろに付け引って飛ぶのですが、その旗を引っ張るワイヤーがたまに落ちてきます。そのワイヤーは釣り糸として使いました。勿論、釣り針も鉄を溶かして自分たちで作りました。その他にも、沢山いる野生のシカを罠を仕掛けて捕らえたそうです。シカの通り道に針金で造った輪っか仕掛け、シカの脚が入ると曲げて引っ張っておいた枝が跳ね上がり捕まえる仕掛けです。カービン銃は持っていたものの、それでとどめを撃つこともできず、シカが騒がないうちにすぐに殺さなければいけませんでした。もっとも幸いだったのは、米軍が捨てるゴミの中は、全く手を付けていない缶詰が大量にあることでした。それらを一度に大量に持っていくと気づかれる可能性があるので、少しづつ何回にも分けて取り出し、一部は緊急用の蓄えとして何か所かに分けて隠していました。また、日本兵捜索のためにアメリカ兵がキャンプを張り見回りに来るのですが、その際にも沢山の食料をその場に残していくのでそれが格好の食料となりました。ゴミ捨て場にはサイズこそ大きいものの、米兵のユニフォームが捨ててあり、軍靴を履き、同じく捨ててあったカービン銃を持たせると小さなアメリカ空軍兵士の出来上がりです。そんなことから、日本軍との戦力・物資の差は歴然としています。 

 ジャングルで生活をしている間、一年をサイクルとして北のアンダーソンから東海岸沿いにパゴ湾までを、一か月から三か月ほど留まりながら各グループと連絡を取り合っていたそうですが、グループによってはほとんど丸裸の状態で暮らしていたそうです。それを考えると、星さんのグループは如何に恵まれていたかがわかります。このような感じで8年間自給自足の生活をしました。星を眺めては、家族のことを思い、戦争が終わったのではと、うすうす思いながらも、兵隊さんは捕虜になるのであれば自決をしたいと思うし、若い気象隊員は何とか生きたいと思いつつ生きていました。でも、星さんは25歳になったら投降しようと密かに考えていたそうです。 

次号に続く 

                                                文責:坂元 吉裕

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