「帰還兵 星一男氏談話」(編集委員:塩澤 伸江) 

7月8日、慰霊塔清掃の日に星一男さん(87歳)にお会いした。星さんは現在は岩手県で電気関係の会社をお子さんに譲り、朝から晩まで身の回りのことを全部一人でしながら、たまに息子さんの仕事を手伝っていらっしゃるそうだ。「休む間もありませんよ」と穏やかに笑う。その笑顔からは、70年程前に8年近くも戦場で壮絶な経験をしたことは少しも感じられない。 

慰霊碑清掃ツアーの間中、星さんの周りには入れ替わり立ち代り誰かしらが近寄り、当時の様子をあれこれと聞いている。その話を耳をそばだてて聞いているうちにだんだんと引き込まれていった。その体験ひとつひとつ、日時、場所、名前など間髪なく克明に出てくる驚くべき記憶力は、星さんの体験がご自身にとってもどれほど壮絶なものであったかを物語っている。 

星さんはもともとは福島県の出身とのこと。6人兄弟の長男で、4歳のときに一家でサイパンにわたりサトウキビ栽培に従事した。当時サトウキビ栽培は非常に盛況で、3年働けば故郷で家が建てられたそうだ。星一家も実際3年後には地所を手に入れた。このとき両親はほかの兄弟の分も家を用意してやりたいと、再度サイパンに戻った。 

「そんなに欲張らなければ、こんなことにはならなかったのにね」と星さんは当時を振り返る。残念ながら、星さん一家はサイパンで妹さん一人を残して全員亡くなられてれてしまった。 

 星さんによれば、サイパンでの生活はあまり不自由はなかったそうだ。国民学校を14歳で卒業し、気象隊として選抜されたほかの20人の生徒たちと一緒に昭和19年4月8日、グアムに渡った。 

 軍人だった父はこのときすでにティニアンからサイパンへ戻る双発機が撃ち落とされ(パガン島にて)戦死しており、母は女手ひとつで5人の子供をつれて戦火を逃れなければならなかった。あちこちに避難、移動していたので、どこでどう亡くなったのかは知る由もない。 

 星さんがグアムに渡って3ヶ月と少し経った7月21日、アメリカ軍がグアムに上陸し、総攻撃が始まった。星さんら気象隊は兵士ではなかったので武器は持っていなかった。気象を観測し、大本営はそれを元に戦略を立てたのだ。それに何より若干14歳、今で言う中学2年生のまだまだ子供の集まりだった。中隊長に率いられ、6人の気象部隊は日中は身を隠し、夜は月明かり、星明りを頼りに海岸で釣りをしたりして腹を満たした。気象隊なので、潮の満ち干きや闇夜の明るさなど計るのはお手の物だった。釣竿や釣り針は針金や吹流しの口の部分の輪で自分たちで作った。満天の星空は星明りで影ができるほど明るかったのを星さんは今でも覚えている。 

 そのような状況下でも気象情報の発信は続けられていたが、電信に使う暗号書を焼けといわれたときには、戦況が好転しないであろうことを察した。「もうだめだ」と思ったという。 

 星さんたち気象隊も7月25日にはマンガン山から突撃することになった。幸いにも、この日の突撃は中止になった。サイパンは玉砕したが、グアムは玉砕してはならぬ。1日でも一人でも多く生き延びて持久戦をせよ、との大本営からの指示だった。 

 少しでも安全な場所を求めてさまよっている間に、気象隊員もまた一人、また一人と銃弾に倒れていった。14歳という子供たちの集まりは、指揮をとる人を失い命令を出す人もなく、取り残されてしまった。それでもどこからともなく集まってくるほかの兵士について、別の隊に合流することができた。 

 星さんが今でも忘れられないというのは、通りすがりに倒れていた設営隊の2人の兵士の姿だった。一人はすでに息絶えていたが、もう一人はまだ息があった。その人は手に財布を握りしめ、通りかかった星さんに「何とか自分の家族にこのお金を届けてくれないか」と懇願したそうだ。故郷に残してきた二人の子供にこのお金を届けてやってほしい、と。迫撃砲に照らし出されたその人に「歩けますか?」と聞いたがその人は「だめだ」と言った。星さんはそのお金を預かってあげることができなかった。14歳の少年には、こんな状況でお金を預かったところで、約束を果たしてあげられるかどうかなんてわからなかった。「守れない約束はしてはいけない」加えて又木(またぎ)山は通信基地だったので迫撃砲がすさまじく、とてもそこにとどまっていることもできなかった。「やめてくれー」と心の中で叫んでいた。 

 間一髪で命拾いし、翌朝見たら、周りはもう何もない焼け野原だった。 
 今になって思えば「本当に届けられるかどうかなんて、どうでもよかった。『承知した』と預かってあげていればあの人は安心して死ねたかもしれなかったのに」と悔やまれてならない。自分の後に通りがかった人が何とか受け取ってあげて、あの人が安心して死ぬことができたと願うしかない。 

 日本軍にはほとんど何も残っていなかった。兵士の多くは服もまとわず、靴もないものもいた。日本軍に残されたわずかな陣地、白浜まで辿り着き、もうこれで最後、持っているもの(ダイナマイト等)を全部集め、米軍を近寄せるだけ近寄せたら爆発させて自決しようと待ち構えていた。そこへ佐藤参謀が通りかかり「自決はいかん」「君らはまだ若い。サイパンのようになってはいかん」「生き残ってジャングルに入れ。ゲリラになって戦えばその内に日本から助けに来てくれる」と言われたときには「本当に安堵した。」「やっぱり生きたかった。」 

 8月8日米軍の艦砲射撃が浴びせられた。そのすさまじさとは対照的に翌朝の静けさは今でも鮮明に覚えている。その静けさは、そこにも米兵が上陸したことを示している。艦砲射撃を継続したら、味方をも殺してしまうことになるからだ。 

 この後、星さんたちは陸軍軍人9名、少年隊7名でジャングルに入った。ここから約7年8ヶ月にわたるジャングル生活が始まることになる。 

ラッテ9月号に続く 

編集委員:塩澤 伸江

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