「グアムの大和撫子 タツエさん(1)」(中浜 利生) 

グアムの大和撫子、タツエさん(1) 

 グアムにくると年中白い花を咲かせ、スカッとさわやかな香りを漂わせているプルメリアに出会う。飛行場のレンタカーに乗り込み窓を一杯に開けてホテルまでのドライブで早くもリラックス気分、我が第二の故郷、南国の島である。 

 今日から2週間、お定まりの一人旅暮らし。水泳とゴルフそして最も重要な行事は島の南、イナラハン・メリッソに住む一人暮らしの80歳になる大和撫子“タツエ”さんに会って、苦労話を聞くことにある。タツエさんと知り合ったのは今から5年位前になるだろうか?兼松定年退職後、働き口を求めて、2002年4月に私が初めてグアムに来て、7月、猛烈な台風に見舞われ、3ヶ月も電気も水もなく途方にくれていた頃、同じく私と同年代の第一興商(カラオケ産業No.1)から派遣されてきていた冒険野郎と知り合い、イナラハンにある彼の社員寮に泊まった時にタツエさんの家に連れて行かれたのが最初だったと思う。家の前方には太平洋が広がり、裏はジャングルを切り開いたプランテーション、バナナ、スターフルーツ、マンゴー、パパイア、ノニ、サワサップ、椰子、レモン、胡桃等等、自然栽培しており、タツエさんの夫、81歳の退役軍人のエスピノザが上半身裸で筋肉隆々の偉丈夫の右腕が鉈をふるい収穫し、これをタツエさんが道路脇の小さなスタンドに並べ、道行く人が車を止めて買っていく風景。私はタツエさんが手絞りで作って冷蔵庫にしまってあるノニの原液を15ドル/ペットボトルを買う。 

 伊豆で生まれ育ったタツエさん23歳は1957年にグアム出身の米国軍人エスピノザ24歳と熊谷米軍駐屯基地にて結婚した。タツエさんは3人娘の末子で上の二人はいずれも見合結婚したが、各々夫が事故により早世して姉たちの不幸を見たと言う。自分の番と成り、一度、親の勧める見合いはしたが、どうしても好きになれず、偶々、米軍兵士に嫁いでいた友人を頼って夜逃げ同然に熊谷に行き親との消息を絶ったという。タツエさんの友人の夫米軍兵士の話ではエスピノザは彼の上官で1950年-1953年の朝鮮動乱で勇敢に戦い勲章を貰うほど立派な上官である。しかしながら兵舎の中では変わり者で、日本人に恨みを持ち、酒を飲むと「機会があれば日本人の3人や4人は殺さねば気がすまない」と周囲に語っていたと言う。 

 グアムの歴史を振り返れば、日本軍は1941年12月8日太平洋戦争開戦と同時にグアム島を占領、2日後の12月10日には「大宮島」と名づけて3年後にアメリカ軍に奪還されるまで軍政下に置きこれを統治した。日本軍の敗色濃厚となった1944年エスピノザの生まれ育ったグアム島の南部、メッリソ付近で日本兵による現地人の大虐殺があったと言われる。その虐殺された中に敬愛する兄や有能な友人が居たのだという。そのような日本人に恨みを持つエスピノザが美貌(昔はさぞ美しかったであろう)の大和撫子に一目ぼれ、タツエさんも硬骨漢、背が高く格好の良い若き士官に惹かれて電撃結婚に至ったかに想像される。 

*次号に続く      
                               

文責:中浜 利生

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