グアム戦の生還者 小林喜一さんのお話を聞いて
先日、日本人会主催で年に二度開催される戦没者慰霊塔の清掃と慰霊祭が行われた。
当日集まった50人以上のボランティアの中には、NPO法人ピースリングオフグアムの呼びかけで日本からご参加いただいた方々もいた。旧日本軍の兵士としてグアム戦を戦い、生きて日本へ帰還された小林喜一さん(93歳)もその一人
小林さんの出身は長野県。17歳で海軍に入隊し横須賀へ。そして19歳の時にサイパンを経由してグアムへ赴任した。
海軍321航空隊に所属し、スマイの日本軍第一飛行場付近で航空機整備士として従事していた。1944年7月21日にグアムへ上陸した米軍との間で、この飛行場を巡る激しい攻防戦に敗れて北部へ撤退した。その後8月2日のバリガダの戦いに参戦するも米軍に突破され、小林さんら生き残ったわずかな敗残兵は散り散りとなりジャングルの奥深くへ逃れた。
小林さんがたどり着いたのはパゴ湾付近にある洞窟で、当初7人の仲間と一緒だった。付近のジャングルには陸海軍合わせて当初50人ほどの敗残兵が潜んでいたという。
この洞窟でその後約1年を過ごし、生きて日本へ帰還した。
戦史にはこうある。日本軍の玉砕後、密林に潜んでいた日本兵は約2,500名と推定されたが、そのほとんどはアメリカ軍の掃討で戦死するか、自決したか、病気や飢えで亡くなった。占領時の強制労働や収奪、虐殺などで日本軍に恨みを抱いていた現地チャモロ人も掃討作戦に協力している。最後の日本兵が降伏したのは終戦後の1945年9月4日の事であった。多くの日本兵が戦後ジャングルに長く潜んでいたのは、住民の報復からの恐怖のためとも言われている。(戦後27年の1972年に横井庄一氏が最後に発見された。)
共に潜んでいた7人の仲間は皆戦死し、最後は小林さん一人となった。仲間の死因は全て敵による銃殺で、餓死や病死ではなかったという。
洞窟に潜んで過ごした約1年の間、どのようなことを考えていましたか。
とにかく生き残るために敵から逃れることに神経を集中していた。家に帰りたい、母に会いたい、ということを考えていた。母親は厳しくて怖い人だったが好きだった。料理は上手ではなかったけどその味も好きだった。
また、戦友が亡くなるたびに、祖国の家族に遺してほしいと、その遺品や遺言を預かった。その約束を果たすためにも生き延びなければならないと思った。しかしギリギリの敗走生活の中で、託されたそれらの遺品は全て失ってしまった。
何を食べて生きていましたか。
バナナやパパイヤといった果物がほとんどだった。海には魚が見えたが、釣り道具などなく他に獲り方も知らないので魚は獲れなかった。海水を沸かして塩を取ったり、貝の一種を獲ることもあったが、海岸線は敵が多く常に危険な場所だった。
バナナやパパイヤはジャングルの中に自生しているものはほとんどなく、多くは民家の周辺に植えられているものだった。そのため命がけでそれを盗みに行くしかなかった。ある時また食料を調達するためにチャモロ人の民家に忍び寄ると、パンの実やバナナなどの食料が軒先に置かれていた。そしてそれはその後も続いた。彼らはジャングルに潜む日本兵が腹をすかして食料を取りに来ることを知っていて、我々に食料を恵んでくれていた。その温かい心には今でも本当に感謝している。
洞窟での潜伏生活の最後はどのような状況でしたか。
米軍兵に発見され降伏を促され、手をあげて洞窟から出た。第一声に「腹が減った」と日本語で訴えたところすぐに食事が与えられ、膿んで腐りかけていた足の銃創も適切に治療してもらった。この時の米軍の対応には感謝しかない。そしてアメリカの食事はとにかく珍しく、どれも素晴らしくおいしかったことをおぼえている。
その後小林さんは帰国し、地元長野で教育関係の公務員職に就いた。数年前までは毎年戦友らの実家を訪ね墓参りを続けていたが、老齢でそれも叶わなくなってきたという。
グアムで無謀な戦争の狂気を体験し生還された方から、追われるはずの現地住民との心の交流と感謝、敵として戦った米軍への感謝を、生の声として聞けたことは非常に貴重な体験であった。そして、最後に「戦争は嫌だ。」とぽつりと語った顔が印象的だった。
編集委員:E.K.